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連盟創設の頃の看護の状況:福井県看護連盟


連盟ふくい座談会:連盟創設の頃の看護の状況福井県看護連盟座談会 連盟創設の頃の看護の状況

家族、医師、看護師が手を取り合って看護を行っていた時代から、基準看護、完全看護という制度が生まれ、労働環境も厳しくなりつつある状況の中で、昭和34年、生まれるべくして生まれた看護連盟。
連盟誕生の前後で、看護師が働く環境はどのように変わっていったのでしょうか?
 

介護から器具の消毒まで…走らないと間に合わない、そんな労働環境でした。

司会

最初に、岸本さんは病院の師長をなさっていましたが、昭和30年前後ぐらいの看護の状況についてお話いただけますか?

岸本
岸本政子さん
一貫して地域の病院の看護師として勤務。その間、病院の看護管理をはじめ、地域の看護職の指導者としての役割を担ってきた。
「常に穏やかな心、笑顔で患者さんと接すること」「医師・患者・スタッフ間のパイプ役になること」を心掛けてきた。

はい、あの病院はベッドが100床ぐらいの個人病院でして、当時は看護部もありませんし、勤務表も簡単なものでした。当直制で、当直したあとは半日休み、その代わり深夜勤務でも睡眠をとっている時が多くて、患者さんからの訴えがあれば起きる、という状態でした。

基準看護(※)もとっていませんでしたから、家族介護が多かったですね。家族が介護できない時は家政婦協会から家政婦さんが入っていました。ナースステーションもなくて、診察室の片隅を借りていたぐらいです。

※基準看護
患者に対し、病院側が全て看護業務を行うこと。完全看護。
病院側の“チーム医療”に弊害を及ぼすような、患者負担で個人的に依頼した「付き添い看護」は禁じられる。
司会

基準寝具はどうでしたか? ご家族が寝具を病院へお持ちになるんですか?

岸本
シンメルブッシュ煮沸消毒器
病院の「中央材料部門」は昭和30年代以降に新設される病院で設置され始めた。
それまで注射器や針などは、病棟や各科に用意されていた“シンメルブッシュ煮沸消毒器”で消毒し、何度も再利用されていた。
(写真:©Y tambe 2006)

基準寝具(※)というのは恐らくなかったと思います。患者さんが入院される時に、ご家族が炭やコンロなども持ってこられました。

個室は6畳間で、3畳が板の間、3畳がベッドで鉄製のお粗末なベッドがありました。
入院となると、本人の寝具やご家族の寝具も持ち込まれて、大変だったと思います。自炊所も洗面所も共同で、本当に今思うとお粗末な所でした。

消毒はシンメルブッシュが各科にあって、いつも煮沸消毒をして再生し、注射器もガーゼに包んで2本くらいずつ消毒していました。

※基準寝具
かつては入院する場合、身の周りの世話や寝具等は患者側が準備することになっていた。1950年の「完全看護」という考え方に伴い、看護を全て病院側で行うという「基準看護」や、病院側が寝具を用意する「基準寝具」という流れになっていった。
司会

そんな状態で、感染を起こすということはなかったんですか?

岸本

それが不思議となかったんです。何回も消毒しましたので。
でも、今思うと、よく事故などが起きなかったな、と思いますね。

司会

久島さんはいかがですか? その頃のことで何か思い出に残ることはありますか?

久島
久島スナヲさん
看護職として50年間、主に病院に勤務した経歴を持つ。その間看護学校において8年間看護師育成に携わる。
福井地震の体験から「自分が健康でなければ患者さんにやさしい笑顔を見せた看護は出来ない」と思った。それ以来、絶えず自分の健康に気をつけてきた。

そうですね、当時は福井に空襲があったり地震があったり、大変でしたね。

空襲の時、私はまだ学生でした。当時は空襲に備えて何枚も服を着て、火がついたら一枚ずつ脱ぐ。そういう練習ばかりしていたのを覚えています。
その後、学校を卒業して、数年経ってからサナトリウムに勤め始めました。

司会

その時の看護の状況はどうでしたか?

久島
昭和24年当時の病室の風景
[ 写真 :「日本の看護120年」(日本看護協会出版会) p179-16 ]

その時は基準看護もなく、患者さんは家から布団やコンロなどの家財道具を持ってきて入院していました。

私たちがする事といえば2交代での看護。朝8時半に申し送りをして、それが済んだらモーニングケアを行って仕事の割り当てをしました。モーニングケアの後は医師への報告をして指示を受け、看護を行っていましたね。

司会

当時のモーニングケアで、衛生材料はどう消毒していたのですか?

久島
1960年代まで、医療材料の消毒に用いられたのは、主としてシンメルブッシュ式の『煮沸』ならびに『蒸気』による消毒方法だった。
写真左:蒸気で滅菌する「オートクレーブ
写真右:ガーゼ缶(ケッテル
[ 写真左 :「日本の看護120年」(日本看護協会出版会) p107-9 ]

それは自分たちで消毒していました。中央材料室なんてありませんでしたし。

注射器等はシンメルブッシュで煮沸消毒し、ケッテルなど蒸気滅菌するものは、コッホ消毒器と言われるもので消毒していました。…以前は炭でした。

25年には“完全看護”が制定され、その頃から「付き添いは廃止しなさい」と言われ始めましたよね。当時の日赤では、1つの病棟が40床ほどで、看護師は10名ぐらいしかいませんでした。患者4人に1人の看護体制です。

司会

完全看護、つまり家の人に何もさせないで、施設の人で看護を行いましょう、という制度ですね。